二日酔いが覚めたらそこは戦場でした / マックス・ペイン3

ROCKSTARGAMES最新作。マックス・ペインシリーズ最新作。ストーリーモードを1周クリア。酒と薬にまみれながらもサンパウロで再生を誓った元刑事マックスが、汚職・誘拐・人身売買がからむ血生臭い事件に巻き込まれてゆく。

ストーリーモードは約30〜40分ほどでクリアできるチャプターに分けられている。市街地・ナイトクラブ・墓地・空港など、ざまざまな状況下で銃撃戦が繰り広げられる。1対超多数の戦闘をいかに効率良く有利に進められるか瞬時に判断し、行動を取捨選択していくのがこのゲームの肝だ。しかしながらマックスの体力が非常に少ない上に、自動回復なんて優しい機能はなく、回復にはペインキラーと呼ばれる鎮痛薬が必要だ。そのためプレイしはじめの頃、CoDに慣れてしまった僕がいつものように無計画に突撃させ、無残にも蜂の巣にされてしまったマックスはもはや数え切れない。遮蔽物に隠れながら敵を殲滅していくのがスタンダードな攻略法だが、安全地帯から時間をかけてしっかりと狙った照準で、こちらにヘッドショットを許してくれるほど敵も悠長ではない。壊れゆく遮蔽物から遮蔽物への移動、もしくは無数に浴びせられる銃弾の雨に中に自ら飛び込んで的確に敵を仕留めなければならない場面にも直面するだろう。

そんな絶望的な状況を覆せる奥の手がバレットタイムだ。弾の軌道がはっきりと見えるほど時間の流れが一時的に遅くなり、急所(頭・心臓・股間)を狙い撃てば瞬時に複数の敵を倒すことが可能である。また進行方向に飛び込みながらバレットタイムが発動するシュートドッジも有効だ。この2つを組み合わせ絶体絶命の状況を突破できたときは、ラストキル時の最後に放った弾が的に命中する瞬間をまじまじと魅せられる演出とあいまって脳汁でまくりである。また、鎮痛薬を所持しているときに致命傷を負った場合、自動的にバレットタイム状態になり襲った敵に攻撃を当てることで生還できるラストスタンドが発動する。何度も助けてもらってはいるが、このラストスタンドが曲者で下手な体勢の時に打たれるとなかなか敵に照準が合わず、撃っても撃っても当たらなくて弾が無くなったデザートイーグルの空撃ちが鳴り響くなかで死亡する、違う意味で泣ける演出になってしまったこともしばしばある。

先ほど述べたバレットタイムおよびラストキル、またムービーシーンからアクションパートへと違和感のない移行など映画的演出が多く、主人公であるマックスには多分に感情移入し映画的なゲームプレイが可能なシステムになっている。がしかし、映画的演出で留まってしまっているのが非常に残念である…というのがクリア後の感想だ。レッド・デッド・リデンプションのラストのような、幹となるゲームシステムがプレイヤーに圧倒的な刺激を与える演出が本作で存在したかと問われると疑問だ。プレイしていて飽きることのない良作だと思うが、ROCKSTARGAMES最新作には従来のゲームのその先を期待してしまうのがファンの心情だろう。もう少し光るサムシングがあれば十分傑作になりえた惜しい作品である。

虚構と現実の狭間に揺れる / ザ・マペッツ


虚構と現実を切り離すのがキャメラを通した映像であって、映画というのはその虚構をいかに信じこませ、納得させ、観客を没入させるかがミソじゃないのかなんて考えていた時もありました。最近の作品だと『ル・アーヴルの靴磨き』の劇中でロベルト・ピアッツァ演じるリトル・ボブに当てられる照明のあからさまな変調具合に一気に没入感を削がれる思いをして、技術を感じさせない演出の重要性を感じたりしていました。で、本作はというと前提であるマペットと人間があたりまえのように共存している世界感から既に虚構を信じこませることに重きを置いていません。では、何に重きを置いているのかと問われたところで、納得のいく答えがスパンと導き出せるほどこの作品を自分なりに読み解いたわけではないのですが、でも、でも良かったです。

人間とマペットの兄弟として育ってきたゲイリー(ジェイソン・シーゲル)とウォルターの成長という主軸があり、そこにマペット・ショースタジオの存亡、そしてゲイリーとメアリー(エイミー・アダムス)の恋の行方が絡んできます。ゲイリー・ウォルター・メアリーの関係性はどことなく『ショーン・オブ・ザ・デッド』のショーン・エド・リズを思わせます。そう思うと、ショーンとエドのように互いを補完しあってきた、マペット的な人間であるゲイリーと、人間的なマペットであるウォルターのある種成長と決別の物語と言ってもいいかもしれません。

この世界観だから許される説明的なメタ要素、"ここがこの映画のポイントだよ"と説明したり、インディ・ジョーンズのような移動を地図で省略など、ふと、虚構から現実に引き戻されるポイントは多々あります。言うだけ野暮でマペットリテラシーが足りないだけかもしれませんが、数十センチの身長なマペットが人間とまともに会話できる構図に収まっているのはなぜなんだ?と思う場面もありました。しかし、そんな事はどうでもいいでしょうと思わせるパワーがこの作品にはありました。

特に、ゲイリーとウォルターのはっきりとした決別のシークエンスには、この作品が掲示してきた虚構と現実の曖昧さを不意に突く素晴らしいものだったし、そこから一転して多幸感あふれる(そこに至るまでも十分だったかもしれないが)物語の展開には、ただただ涙するしか無かったです。

僕が鑑賞したお台場シネマメディアージュでは、既にパンフが売り切れという状態でした。極めて門戸が広く、なおかつ観た者の心を揺れさせる映画なのに、小さな公開規模はどうしてなんだと不思議でなりません。是非、足を運べる方には観ていただきたい一本です。

これからはすべてよくなる / へんげ

ジャケ買い」という行為は映画を観る場合においても例外ではなく、琴線に触れる宣伝ポスター、DVDジャケットを見ただけでその映画を観たくなることはよくある。

で、今回も左の『へんげ』のイメージが目に入っただけで観に行くことを決めた。"異形な者への愛"がはっきりと刻まれたそのイメージは、それだけで僕の心を掴む力があった。とは言うものの、予告編も観ていなければ、自主制作映画に対して深い造詣があるわけでもない、おまけに監督の大畑創さんが関わった過去作さえ観ていない。そんな体たらくなので「面白かったら儲けもん」ぐらいの、かなり軽い気持ちで観に行った次第である。しかし、度肝を抜かれた。

完全な怪物、"異形な者"になってしまった夫(相澤一成)に恐怖し拒絶していた妻(森田亜紀)が全てを受け入れ深く抱きしめる場面は、温かくも血まみれの夫婦愛に恍惚とし、感情を揺さぶられる素晴らしいシークエンスであった。僕自身、涙をながしつつも、「これで元はとれたな」とゲスな考えが頭に浮かんでいた・・・が、そこを落とし所としないところがこの映画を最もこの映画たらしめている理由である。

かつて、三木聡監督が自身の作品において「"リアリスティックなものからある種のファンタジーに、完全にジャンプする瞬間”がある」と語った。このリアリスティックとは映画の中での現実・常識・ルールと読んでも間違いではないだろう。まぎれもなく『へんげ』には、それを大きく"ジャンプする瞬間"がある。その瞬間こそ文字通り「へんげ」であり、森田亜紀の「いけぇ!」という絶叫と共に、全てを破壊する愛が炸裂する瞬間でもある。僕が感じた陳腐な感動すら粉々に破壊していくスクリーンを目の当たりにし、『ファイト・クラブ』の「これからはすべてよくなる」時に感じたものと非常によく似た安堵感に包まれながら劇場を後にした。



■参考文献
傷んだ物体/Damaged Goods: へんげ/ここに来るわ!

手がでる、足でる、ゲロもでる! / おとなのけんか

いきなり私事で申し訳ないのだけど、ちょうど長野から東京へ行く用事があり、公開日と運良く重なったので観てきました。ちょうおもしろかったです!『ゴースト・ライター』が記憶に新しいロマン・ポランスキー監督最新作。興行的にも成功し、批評的にも高評価を得たヤスミナ・レザの舞台『Le Dieu du carnage (英題 God of Carnage)』に惚れ込んだロマン・ポランスキーが映画化のために再構成し、80分間のリアルタイム・ワンシチュエーション・コメディームービーに作り替えた。登場人物はロングストリート夫妻を演じるジョディー・フォスター、ジョン・C・ライリーとカウアン夫妻を演じるケイト・ウィンスレットクリストフ・ヴァルツのほぼ4人だけ。ブルックリンに建てられたアパートの、いかにもインテリちっくなリビングの一室で繰り広げられる会話劇が物語の中心となる。

事の発端は両者の子供の喧嘩から始まる。口論の末にロングストリート家の息子イーサンが、カウアン家の息子ザッカリーに棒で殴られ前歯2本を折るケガを負う。被害者側のロングストリート夫妻は加害者側のカウアン夫妻を自宅に招き、話し合いの場を設ける。はじめは両者ともにちらりとエゴい一面を垣間見せつつも穏やかなムードで話し合いが進むのだが、だんだんと和解の話し合いがねじれにねじれ、もはや理性の欠片すら感じさせないような、エゴしか残っていないおとなのけんかに発展していく。

先程、この物語を"会話劇"と称したが『十二人の怒れる男』なんかを想像していくと度肝を抜かれるのは間違いない。クルクル変わる話題の中で揚げ足に揚げ足を取り、皮肉を皮肉で返す!手がでる、足でる、ゲロもでる!攻撃ならぬ口撃相手は自分の嫁や夫であろうと例外ではなく、味方なし制限時間80分のまさにバトル・ロイヤルである。ジョン・C・ライリーもインタビューで語っていたが、この映画のカタルシスはエゴイスティックな本性を理性で包みつつも常識ある4人の大人がことごとく、ストーリーが進むに連れて偽善性という仮面が理性もろともぽろりぽろりと剥がれ落ちる瞬間にある。彼が演じる金物商のマイケルも最初は平和主義的なオーラ全開で口論が勃発するたびに「まぁまぁ」となだめていたと思ったら、相手夫妻からは仕事をコケにされ、さらには動物虐待者と罵られる。挙句に嫁さえも彼を事なかれ主義のダメ男と呼びだす始末。そんな彼が怒りに打ち震えながら自慢のスコッチを飲みだしたと思ったら「ああもうめんどくせぇ!俺は最低男で結構!娘のハムスターもうざいから捨てたしな!ガハハ!」と開き直る。そんな具合に登場人物のあまりの豹変ぶりに観客はカタルシスを得る。しかも爆笑と共に。

本作は2週間の間、4人のキャストが毎日同じセットに集い、一日中最初から最後までそれぞれの役柄を演じ続ける芝居形式のリハーサルの後に撮られた。クリストフ・ヴァルツが「通常の撮影ではこんな贅沢な時間はない。」と述べているように、演者同士の息を合わせるのはもちろんのこと、不適切な部分は排除され、より物語全体を洗練させる効果が生まれたようだ。監督であるロマン・ポランスキー自身もリハーサルを楽しみ、いよいよ撮影の段階ではカメラアングルに気を配ってはいたが、俳優演出にはほとんど口をださなかったらしい。それ故に心地良いテンポで進む物語の中で、絶妙とも言えるセリフの掛け合いが生まれたのだろう。

本作の噴飯物演出、いやゲロ爆笑演出の連続に掴まれたら最後、逃れるのは至難の技だ。今観るべきゲロ面白ろコメディとして自信を持っておすすめします。



■参考文献
えんたほ|最速レポート、映画『おとなのけんか』レビュー情報

疑心暗鬼な必殺仕事人 / アクシデント

ジョニー・トー製作。『ドッグ・バイト・ドッグ』などで知られるソイ・チェン監督作。偶然起こった事故に見せかけて暗殺をする4人組、その中の仲間が死んでリーダーがあたふたします。事故に見せかけて殺す、プロフェッショナルな暗殺者の映画だと最近はジェイソン・ステイサムが無骨に演じた『メカニック』が頭に浮かびましたが、あのジェイソン・ステイサムほど完璧な仕事ぶりかというと言葉につまります。メンバーは…

ブレイン(ルイス・クー) グループのリーダー。妻の死がトラウマ。
ふとっちょ(ラム・シュー) よく食べる。
おんな(ミシェル・イエ) リーダーからの信頼ナシ。
オヤジ(フォン・ツイファン) 痴呆の傾向アリ。

こんな奴らで大丈夫なのか!?と言いたくなりますが、長年この4人で仕事をしています。
タイトルの直後から彼らの仕事が始まり、それぞれの役割をほぼ完璧にこなします。おそらくは隅々まで計算し尽くした行動により、メンバーの最初の接触からターゲットが死ぬまで流れるように作戦を遂行します。ただ、ボケ気味のオヤジが吸殻を安易にポイ捨てし、殺しの形跡を残してしまうあたりから、このチームの仕事が不安になってきます。その吸殻はリーダー兼常時作戦監視役のブレインさんがしっかり拾ってくれるんですが…。

次の仕事は保険金目当ての父親殺しを請け負います。気候に左右される作戦のため、条件が整うまで中止に中止を重ね、ブレインさんがここだ!と思った日にとうとう実行に移します。…移すんですが、またまたオヤジが監視カメラを塞いでいないという致命的なミスを犯すんですね。ブレインさんは「大雨だから見えないよ!大丈夫!」とメンバーになかば強引なゴーサインを出し、我々観客はさらにこのチームへの不信感が増します。作戦は成功し、"偶然"起こった事故に装って標的を殺すことに成功するんですが、メンバーの一人も"偶然"突っ込んできたバスに轢き殺されてしまいます。過去に妻を同業者に殺された事があるブレインさんは、絶対に事故じゃないと疑心暗鬼になります。家に戻ると空き巣に入られており、"偶然"の事故ではなく完全に殺られた!と確信するんですね。先程の仕事の依頼者を担当している保険会社のフォン(リッチー・レン)に的を絞り、自分たちを狙っている黒幕を見つけるために調査を始めます。

盗聴器をフォンの部屋に仕掛け、終始ヘッドフォンで聞き耳を立てるブレインさんなんですが、なんせ四六時中盗聴しているんで、どうでもいいような情報も流れこんでくるわけです。しまいにはフォンが彼女を部屋に連れこんでセックスし始めるんですが、そんな時もブレインさんは真面目に盗聴するんですね。喘ぎ声をヘッドフォン越しに聞きながら、クールで感情をなかなか表に出さないブレインさんが殺された自分の妻のことを思い出して涙を流すシーンは、「ブレインさん、あんた変態やでえ…」と思いながらも込み上げてくるものがあります。

"偶然"が"必然"としか思えない要素がいくつも加わり、ブレインさんはどんどん追い込まれ、最後にはある人の暗殺を行うことを決意します。その暗殺の最中にこれまた"偶然"、日食が起こるんですが…その時、ブレインさんは事の真相をすべて理解します。このラストのオチが僕にとって意外すぎて本当にブッたまげました。ジョニー・トーが製作に名を連ねているため、『ザ・ミッション 非情の掟』や『エグザイル / 絆』のような、スタイリッシュな銃撃戦や仲間同士の渋い友情を期待して観るとちょっとガッカリするかもしれません。しかし、地味ではありますが疑心暗鬼に陥った一人の人間が墜ちていく暗黒ノワールとしてはなかなかの佳作だと思いました。



■参考文献
映画感想「アクシデント」 - くらのすけの映画日記
映画通信シネマッシモ☆映画ライター渡まち子の映画評 : アクシデント
アクシデント: LOVE Cinemas 調布

黒豆:栗きんとん=3:7 / 雑文集 - 村上春樹

村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集

村上春樹のエッセイは好きだ。特に映画について語るエッセイが好きで、『村上朝日堂』シリーズでちょこっと映画のエッセイが出てくると、村上春樹独特の肩に力が入っていない映画評を読む度に、ほっこりした気持ちになっていた…気がする。恥ずかしながら、気がするというくらい後に残らない読書体験だったわけで、「あなたにとってそんな程度の好きさ加減なの?あきれちゃうわ」と言われれば、こちらも「…やれやれ」としか言いようがない。やれやれ。

閑話休題

そんなぼんやりした読書体験の記憶があり、この『雑文集』を手に取ったときは、また村上春樹の映画評が読めればいいなと思っていた。少なくとも、1篇くらいそんな類のエッセイがあるだろうと期待しながら読み進めていった。音楽、洋書、安西水丸、ふんふんいつも通りの雰囲気だなあと読み終わったところで気づいた。映画についてのエッセイが…ない。

閑話休題

序文で著者が"「福袋」を開けるみたいな感じでこの本を読んでいただければ"と語っている通り、村上春樹自身がセレクトした未発表作品、文章が雑多な感じで収録されている。例えば結婚式のメッセージから外国人向けに書かれた地下鉄サリン事件の考察など、なんだ黒豆かと思うようなエッセイもあれば、これは栗きんとん!と得した気分になるほど読み応えのあるエッセイもあり、まさに「福袋」もしくは「おせち」的内容になっている。とはいえ、読み終えた直後の印象では比率で表すと「黒豆:栗きんとん=3:7』くらいで、僕が好き好んで読むような肩の力が抜けきったエッセイは若干少なめな感じではあった。ちなみに僕は黒豆も栗きんとんも好きだ。

個人的にグッと来たエッセイは先程少しだけ述べた、外国人向けに地下鉄サリン事件と彼の作品である『アンダーグラウンド』について書いてくれと、著者が依頼され書き下ろした『東京の地下のブラック・ジャック』だ。著者によると時間を掛けて念入りに書いた文章だが、依頼者の望んでいたものとはコンセプトが違ったらしくあえなくボツ、お蔵入りになったらしい。

誤解を恐れずにいえば、あらゆる宗教は基本的成り立ちにおいて物語であり、フィクションである。そして多くの局面において物語はーーーいわばホワイトマジックとしてーーー他には類を見ない強い治癒力を発揮する。それは我々が優れた小説を読むときにしばしば体験していることでもある。
(『東京の地下のブラック・ジャック』より引用)

フィクションが持つ素晴らしさを説きつつも、システム化したフィクションとその虚構を現実として受け止めてしまうことの恐ろしさを説く『東京の地下のブラック・ジャック』は傑作だと思う。スピーチ『壁と卵』でシステムのメタファーとして壁を用いる以前に、著者がこのような意思表示をしていたことを考えるとなかなか感慨深い。物語なんて俺の人生になくても生きて行けるぜ!本?ビジネス書とか自己啓発以外の本なんて金のムダムダ!と常日頃から感じている人には是非とも、このエッセイだけでもご一読を強くお勧めしたい。

ついでにほっこりポイントとしては、本書に初収録されたエルサレム賞・受賞の際のスピーチ『壁と卵』のコメントがおすすめです。スピーチ発表前はビデオで何回も『真昼の決闘』を観たと書かれており、その村上春樹なりに自分を追い込んだ生真面目さにほっこりしてしまった。



■参考文献
村上春樹『村上春樹 雑文集』 - 「石版!」

それは思考の選択 / 映画の瞬き - ウォルター・マーチ

映画の瞬き[新装版] 映像編集という仕事

映画の瞬き[新装版] 映像編集という仕事

アカデミー編集賞を1度、録音賞を2度受賞するなど映画編集者として名高いウォルター・マーチの著書『映画の瞬き』を読みました。名高いと書きつつも僕がウォルター・マーチを初めて知ったのは『オズの魔法使い』の続編である『Return to Oz』の監督としてで、しかもその映画自体は未見という体たらくでした。構成としては前半では映画編集においての技術的かつ哲学的な考察を、そして後半からはデジタル編集が映画にもたらす功罪を中心的に論じています。

前半部で特に印象的だったのがタイトルでもある著者の考える「映画の瞬き」についてです。ワンシーンワンカットの取捨選択がまさに作品自体の心臓を取り去ろうとしているのか、それともへその緒を切り取ろうとしているのか判断しなければいけない編集という仕事において、並列する非連続な空間世界をどうすれば観客に流れるように違和感なく受け入れられるかということを「瞬き」を例にあげて著者は説明しています。日常生活の中での「瞬き」は思考の分離・区別であると推測し、映画においてはひとつのショットがひとつの思考に、そしてその思考を分離、区別させるのがカットであり「映画の瞬き」であるとして、天文学的な数のショットの組み合わせの中から最善の選択をするのが「思考の芸術」である映画の編集であるというくだりは個人的になるほどなあと納得しました。映画鑑賞時に時折、僕が感じていた説明できない気持ち悪さは、作り手が思い描いたビジョンと編集の間に隔たれた深い溝による、伝えたい思考の不一致が原因なのかもしれない…と読み終わったあとに考えたりしました。

次第にデジタル編集に移り変わる映画業界において、かたくなにそれを拒む人もいるということをこの本では理由つきで紹介しています。スピルバーグなどは近い将来使用する目的でムビオラ(20年代の編集機器!)をスペア部品付きで何台も購入し、それを扱える技師もしっかりと確保しているなど徹底しているらしいです。僕のイメージとしてデジタル編集を好まない映画監督というのは、昔ながらのモノを使ったほうがいい映画ができるんじゃい!という根拠もクソもない願掛けみたいなもので続けているのかなと思っていたのですが、最大の利点である編集用のフィルムを用意しない低コスト化によって何バージョンも作れるという覚悟の甘さや計画不足がデジタル編集にはあるという指摘にはうならされました。

デジタル編集の究極の進化はたったひとりの人間がたったひとりで製作可能な思考の完全映像化だと最後に述べられています。映画が共同作業によって形成される「思考の芸術」と表しているのを考えると、明確には言及されていませんがデジタル編集の進化に関しては思考がより単一的なものになっていく傾向に、著者自身は複雑な思いがあるのだろうなというのが感じ取れました。

映画製作に携わったことのない全くの門外漢な僕でも『映画の瞬き』は大変面白く読み進められました。編集という創作作業に対する印象も大きく変わった気がします。おすすめです。


■参考文献
2011-11-22 - 空中キャンプ
オズ/ドロシー、病名:統合失調症 | 映画感想 * FRAGILE