虚構と現実の狭間に揺れる / ザ・マペッツ


虚構と現実を切り離すのがキャメラを通した映像であって、映画というのはその虚構をいかに信じこませ、納得させ、観客を没入させるかがミソじゃないのかなんて考えていた時もありました。最近の作品だと『ル・アーヴルの靴磨き』の劇中でロベルト・ピアッツァ演じるリトル・ボブに当てられる照明のあからさまな変調具合に一気に没入感を削がれる思いをして、技術を感じさせない演出の重要性を感じたりしていました。で、本作はというと前提であるマペットと人間があたりまえのように共存している世界感から既に虚構を信じこませることに重きを置いていません。では、何に重きを置いているのかと問われたところで、納得のいく答えがスパンと導き出せるほどこの作品を自分なりに読み解いたわけではないのですが、でも、でも良かったです。

人間とマペットの兄弟として育ってきたゲイリー(ジェイソン・シーゲル)とウォルターの成長という主軸があり、そこにマペット・ショースタジオの存亡、そしてゲイリーとメアリー(エイミー・アダムス)の恋の行方が絡んできます。ゲイリー・ウォルター・メアリーの関係性はどことなく『ショーン・オブ・ザ・デッド』のショーン・エド・リズを思わせます。そう思うと、ショーンとエドのように互いを補完しあってきた、マペット的な人間であるゲイリーと、人間的なマペットであるウォルターのある種成長と決別の物語と言ってもいいかもしれません。

この世界観だから許される説明的なメタ要素、"ここがこの映画のポイントだよ"と説明したり、インディ・ジョーンズのような移動を地図で省略など、ふと、虚構から現実に引き戻されるポイントは多々あります。言うだけ野暮でマペットリテラシーが足りないだけかもしれませんが、数十センチの身長なマペットが人間とまともに会話できる構図に収まっているのはなぜなんだ?と思う場面もありました。しかし、そんな事はどうでもいいでしょうと思わせるパワーがこの作品にはありました。

特に、ゲイリーとウォルターのはっきりとした決別のシークエンスには、この作品が掲示してきた虚構と現実の曖昧さを不意に突く素晴らしいものだったし、そこから一転して多幸感あふれる(そこに至るまでも十分だったかもしれないが)物語の展開には、ただただ涙するしか無かったです。

僕が鑑賞したお台場シネマメディアージュでは、既にパンフが売り切れという状態でした。極めて門戸が広く、なおかつ観た者の心を揺れさせる映画なのに、小さな公開規模はどうしてなんだと不思議でなりません。是非、足を運べる方には観ていただきたい一本です。